CLOSE

OPEN

LINE

小さな学校の大きな挑戦

たまひじりのA知探Q 学びの玉手箱!
たまひじりのA知探Q 学びの玉手箱!
聖ヶ丘ニュース
校長

【校長ブログ】ミャンマー(ビルマ)への想い

 コロナ禍の中とはいえ、世界ではロシア、ベラルーシなどで武力を背景にした独裁的な圧政に対して、国民による反発が起きています。中でも、今、世界が注目しているのは、2月1日にミャンマー国軍によるクーデターが勃発したことであり、国内外に大きな衝撃を与えました。2011年に民主的統治に移行するまで約50年間もの長く続いた抑圧的な軍事政権の時代へと逆戻りしたのですから、国民の反発は必至です。連日、国内の主要都市で大規模なデモが起き、弾圧する軍・警察との衝突で数名の死者が出るなど被害も拡大しています。そして、222日、全土を挙げて数百万人ものの人々が、一斉にゼネストを起こしました。

 この一連の事件の背景には、昨年11月の総選挙でアウンサンスーチー国家顧問が率いる国民民主連盟NLDが圧倒的な勝利をし、これに不正があったとして選挙結果を容認しない野党USDPとの対立がありました。今回のクーデターにより、アウンサンスーチーさんをはじめ、NLDの複数の主要な政治家が拘束されたのです。さらに問題を複雑にしているのは、2017年の国軍による少数民族ロヒンギャ1に対する集団虐殺をアウンサンスーチーさんが追及しなかったことについて、国際人権団体は問題視していることが挙げられます。この点、複雑な民族問題を抱える国ミャンマーとはいえ、少数民族側から大きな不信感が出されているのも事実です。         

  •                  *                *

 ところで、私が生まれ育った家の3階のベランダからは、狭い関門海峡の対岸に黄金色に輝く世界平和パゴダ2)が見えていました。パゴダpagodaとは、仏塔(ストゥーパ)を意味する英語で、なぜこんな場所にあるのかと不思議に思っていました。小学生になって,ハイキングがてら何度もここを尋ね、第二次世界大戦時に多くの日本兵をビルマ(現ミャンマーの古名)3)18万人もの兵士を送る船団の基地が関門地域にあった縁で、寄付により建立されたものだということでした。ここには3人のビルマ人僧侶が修行と自給自足的な生活を営んでいました。また、当時、学校で習った国連事務総長を務めた人がウ=タントさん[在196171]というビルマ人だったことも手伝って、私の近所の子どもたちの間ではビルマ身近な存在となっていました。

 また、大学へと進んで教養部時代、最初に習ったのが萩原弘明先生の「東南アジア史概説」で、厳しくもあり刺激的でした。高校時代までに、まったく耳にしたこともないビルマの歴史について、仏教の専門用語やビルマの人物名を聞きながら、90分間、ほとんど手を休める暇もなく、ひたすらノートに書き写す(口述筆記)というものでした。多くの知識を得ることができました。また、書物でしか名前を見たこともない著名な先生方を集中講義に数多く招聘してくださり、最先端の学問を受けることができました。先生のビルマに対する思いは強く、鎖国状態の政府と個人レベルで交渉し、私財を投じて現地調査を実行されたことに学生ながら驚いたものです。こうして、私の中では、ビルマやミャンマーへの思い入れが次第に強くなって行ったのでした。

 次に、聖ヶ丘とミャンマーとの関係については、20103月、本校2223期生の代表生徒5名を引率してミャンマー訪問をしたことです。これは、日本政府が進めるアジア太平洋地域における若い人々の相互交流を意図したJENESYS2.0という事業4)によるので、高校生派遣プログラムに応募し、北海道立札幌淸田高校とともに選ばれました。派遣人数は男子3名、女子2名と少数精鋭で、ほとんどの生徒が中学校3年のニュージーランド修学旅行以来の海外旅行で、ミャンマーはおろか東南アジア訪問が初めての学生ばかりでした。訪問した当時、皆はミャンマーでの日本への憧憬と日本語熱を知り、同時にミャンマーの学生たちの気遣いにも驚きました。恥じらうことは日本人とも近いですが、レストランに入って食事が出されると、だれともなく割り箸を箸袋から出して綺麗に二つに割り、私たちに手渡してくれました。また、寺院や遺跡を訪問した時も、急に雨が降り出す(スコールになる)と競うように傘を差し掛けてくれ、年長者や客人に対するマナーとして自然に振る舞う姿に感動したものです5)

 当時のミャンマーは民政移管前の軍政下であり、2009年にノーベル平和賞を受賞したアウンサンスーチーさんも自宅軟禁にありました。湖畔にたたずむアウンサンスーチーさんの自宅前の道路は、軍によって閉鎖され、近づくこともできませんでした。また、現地での学校訪問先については日本大使館もかなり努力してくださいましたが,他のアジア諸国における派遣事業と違ってミャンマー政府の許可が下りませんでした。もちろん、民主化も経済の自由化もまったく整っておらず、実施団体であるJICEの計らいで、ヤンゴン近郊にある僧院学校と、市内の日本語専門学校との交流ということになりました。僧院学校とは、国民の大半が熱心な仏教徒であり、伝統的習慣として寄付(お布施)大国のミャンマーでは、寺院が中心となって主に小学校に通えない貧困家庭の子どもたちに無償で教材や制服、食事を与え、僧侶がボランティアで教える学校のことです。こうした僧院学校は11世紀頃に始まっていたとも伝えられ、全国に1500校以上もあります。それが途上国でありながらも、珍しく高い識字率を支えて来た理由だと言われています。さらに、国内では社会教育が普及し、日本との経済交流が進む以前から、都市部を中心にパソコン教室と並んで放課後の日本語教室が大盛況していました。私たちが訪問した翌2011年には、ミャンマー政府の方針転換で日本やアメリカ合衆国の協力の下で経済の自由化が進み、その後、経済発展が急速に進みました。ヤンゴンでは、日系企業や邦人の進出が急激に増え、就職や技能実習生として日本派遣を目指す若者が急増していた矢先、冒頭の事件となったのです。敬虔な仏教徒の国は、どこへ向かおうとしているのか、甚だ気がかりです。

ef.

1) イギリスからの独立闘争において、複雑な民族構成からなる当時のビルマ(現ミャンマー)だったが、イスラーム教徒のロヒンギャだけがイギリス側に残ったことが、民族対立しこりの一因であるとされる。

2) 世界平和パゴダ(北九州市門司区)は、20207月、国の登録有形文化財に登録されました。

3) 東京外国語大学では、世界14地域28言語と日本語が学ぶことができますが、今でもビルマ語という名称を使っています。

4) JENESYSとは、「21世紀東アジア青少年大交流計画」のことで、Japan-East Asia Network of Exchange for Students and Youthsの略称。大規模な青少年交流を通じてアジアの強固な連帯にしっかりとした土台を与えるとの観点から、日本政府により進められた事業。2007年から5年間、さらにはJENESYS2.0として2017年まで延長された。

5) JICE(日本文化交流センター)のホームページでは、2010年の聖祭(文化祭)で発表した内容、インタビューを閲覧することができます。http://sv2.jice.org/jenesys/2011/02/2010919jenesys2009.htm(2021年2月23日閲覧)

   石飛 一吉(2011)JENESYS 2010高校生ミャンマー派遣報告, 本校紀要「educoNo.4,pp.2-15.